2021年1月23日土曜日

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Napの考えること2006(#26-#29) 






2006年 11月 12日


Napの考えること(その29)「マンネリ」



だいたいライブで演奏する時間は30分くらい。一曲5分だと考えてワンステージで演奏するのは5曲というところ。持ち歌で自信のあるものを優先順で並べるといつしか同じ歌が中心となる。そんな感じだから自然と集客のためにお客さんに声をかけにくくもなり、おまけに自分もマンネリしてくる。これって自分のお話です。あしからず・・・。


で、解決その一。新しい曲をバンバンつくる。

その二。古い曲でもいいからガンガン持ち歌を増やす(最低30曲くらいはね)。

その三。とりあえずライブにバシバシ人を呼ぶ(ほら、いやでも新しい曲やるしかなくなるでしょ)。


まあ、別にふざけてるわけではないのですが、怖いのはマンネリです。自分という箱に何かを詰めて、すこしは中身のあるものにしたいと始めた音楽なのに、それまでもが義務のように、まるで嫌いだった学校生活のように、たいくつ過ぎる機械仕掛けの仕事のような。そんなあまりにも悲しすぎるマンネリ。それこそが自分の敵です。


で、ちょっとここ最近ギター片手にする時間を増やしました。はっきり変わってくるのを感じるのは自分の中の感性です。澱んで沈下した水が動き出すよな。そんな感覚を徐々に思い出します。表面上はちっとも変わってないと思いますが(つまりギターも歌もたいしてうまくならない)。でも気持ちが変わります。何かを生み出そうとあがく自分がまだいることがちょっと嬉しい。おかしな言い方ですが。


ライバルは自分です。なんだかんだいっても自分が一番怖い。手を抜く自分。突っ走りすぎる自分。感傷的になり過ぎる自分。なんでもかんでも過ぎて過ぎて過ぎすぎる自分(そんな言葉はないけれど)。そんな時程よいブレーキにもなってくれるのも音楽の魅力。それに改めて気づきます。習得するのに遅く忘れるのに早い自分にあきれつつ。いまはちょっとそのことは頭から離したらあかんなと思っています。


さて、だいぶ冬らしくなってきました。年末に向けて皆様もどうぞお体を壊さないように。ご自愛ください。 





2006年 07月 10日


Napの考えること(その28)「ライブミュージシャン」



「原石Ⅱ(ハダカノウタ)」公開オーディションもいよいよ後半戦。ライブの一般審査というのはもうめずらしくもないけれど、誰かに採点される側に立つということは何であれ勇気を必要とする。個人的な話で恐縮だが、19歳の時に某オーディションで僕はあまりの緊張と意気込みのせいなのか、ステージでまったく声が出なくなった経験がある。その日は不思議なことにステージを降りてもしばらく声は戻らなかった。いまも忘れられない苦い思い出のひとつ。


それはさておき、誰だって誉められるのは気持ちが良い。アンケートでも悪いところを指摘されるよりは良いところを拾って書いてもらう方が嬉しいもの。しかし、厳しい指摘をされることも当然大切な訳で、サロン的、なかよしクラブ的な環境の中でただ持ち上げられるような状況は避けたいもの。いつしか歌までひとりよがりになっていくケースはプロの場合だってある。


60年~70年代にもてはやされたフォークの旗手といわれたミュージシャン達はステージ上で客のやじと罵声が飛びかうのが当たり前だったという。つまらなければ「帰れ」といわれ、借り物の歌や着飾りすぎた言葉には遠慮のない罵声が飛ぶ。本当の自分の言葉を紡いだ歌を見抜くリスナーに鍛えられたミュージシャンは時代を超えていく力をその時に得たのかもしれない。時代の空気もあったのだろうけれど、現代よりもっと客席とステージの距離感のようなものが近く、音楽の質以前に表現の手段としての音楽がそこには歴然とあった時代。


何かを創り上げるということは何かを壊すということ。UKのミュージックシーンにはその精神が今も脈々と受け継がれている気がする。ギリギリのところで壊しては構築していく力。才能も必要だけれど表現しようとする在り所に圧倒的迫力がある。そういった音楽には個人的好みを越えたところでこちらに訴えてくるものがある。


話しは戻るけれど今回の「原石Ⅱ(ハダカノウタ)」公開ライブオーディションを見るにつけ様々な思いを秘めて参加してくれたアーティストのそのひとりひとりの思いがステージに映されるのをひしひしと感じる。それは結果はどうであれ普段のライブとは違う力が働いているためだろう。


僕らライブミュージシャンは部屋でひとり歌う頃の音楽とライブでこうして人前で歌う音楽の違いを見極めていかなければならない。基本は同じ自己表現であってもここには大きな違いがある。そのことを僕自身オーディションから学んだこともあることも確か。たぶん第三者をはっきり意識できる分かりやすいシチュエーションであることも関係するだろう。


最後に。ぜひぜひたくさんの方にリアルタイムでこの公開ライブオーディションに立ち会っていただきたいと願っています。最終的に残った12組によるオムニバスCD「原石Ⅱ(ハダカノウタ)」は2006年12月9日で全国発売となります。詳しくはブログ/fish01.exblog.jp/をご参照いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。 






2006年 03月 01日


Napの考えること(その27)「ポジでありネガである」



ポジティブ=肯定的・積極的。ネガティブ=否定的・消極的。ざっといえばそんな意味を指す時に使う。一日の内にずっと同じ感情でいられるということはまずない。例えば昨日は昼はネガティブで夜ポジティブな気分だったなんてことはよくある。


感情の揺れ具合としてはいやな気分の方が振れ幅が大きい。気分の良い一日だったのにたったひとつのことで台無しになる時がある。そんなとき僕はギターをちょっと眺める。ギターの工芸的な美しさがときめきを与えてくれる。そのうちにだんだんと触りたくなってくる。そしてちょっと指で弾くとギター独特のきらびやかな音が聴こえてくる。指が痛くなるまで弾いた頃には少し気分も軽くなる。


今の世の中、鬱病の人間が増えているそうだ。古今東西芸術家の心の病気持ちはかなり多い。なにも芸術家じゃなくたってみんな何かしら心に抱えている。でも飯を食っていかなければならないから引き篭もる訳にはいかない。だからひどくならないうちに自分のやり方でなんとか帳尻を合わせる。


好きなものが自分の心をポジティブに持っていってくれるというのはある。きつい状況でもそのあとに求めるものが手にできると思えたら気持ちは前に向かう。その先に何の約束も望みもないことに打ち込み続けたら疲労感だけが残る。しかしそんな毎日を過ごすしかない時期もある。だから最低でも望みをそこに見つけるなり探すことでしか自分の心を勇気づける手だてはない。


大きな困難に立ち向かう力はすぐには身につきそうにない。だから僕は希望を探すことに力を注ぐ。闇を切り裂けるのは光だけ。自分の身の回りにいる大切な人が苦しんでいる姿をみるのは悲しい。早く光を見つけてほしいと願う。しかし照らす光は本人にしか見えない。自分だけが見える光を手に入れることでしか本当の力にはならない。三歩進んで二歩下がる。強いと弱い。ポジティヴとネガティブ。その線引きはとても曖昧で不明確。心の複雑さは永遠に解けない謎。そうに違いない。たぶん・・・。 






2006年 01月 04日


Napの考えること(その26)「2006年。あけましておめでとうございます。」



新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。


正月早々僕はミックスの仕事に追われています。そんな慌ただしい中ちょとした休憩時間にTVに映っていたお笑い芸人が言っていた言葉。「世界中が武器を放棄すれば本当の平和がくるんだよ!」 とまさしく直球の発言。当然のごとく他のタレントのみならず番組に出演していた政治家が現実的じゃない等々批判を浴びせる。しかしその芸人はひるまずさらに続けました。あなたたち政治家が理想をいわなきゃあいけないんでしょ、と。なぜか誰かが真正面から正論をぶちかますと理想主義だ、ロマンティックな奴だと批判する。今の日本の縮図はいたるところで見え隠れする。


二日の新聞には義務教育を受けている子供の4人にひとりが国からの援助を受けているとあった。その地域のある学校の教師は毎日鉛筆とノートをそういう子供たちのために用意する。将来の夢も描けないその子供たちは2時間目の授業が終わる頃には弁当を食べそのまま帰ってしまう。義務教育を終えたら高校へいくお金は当然望めない。勉強に意味を見出せないのも理解できる。これはどこかの貧しい国の話ではなく、東京の某A区の話。原因はリストラや会社倒産によっての経済破綻。一方僕のまわりの家庭は子供のため塾に毎月何万円ものお金をかけている人が多い。この現実。この落差。なんともいえないショックな話。


最初の芸人の話にもどります。彼はこうも言ってました。「体があっち向いていたとしても視線が前を向くことが大事」と。シンプルだけどこれもおもたい言葉。すぐには物事は変わらないけれど自分の望む方向を見失わないことは大切なのだ。


音楽ひとつでも当てはまる。いろいろと考えさせられました。どのような未来を描くのか。生き方も音楽もそれは同じことですもんね。


よ~し。僕もこのミックスが終わったらもっと真剣に考えよう。ってそれじゃあだめか・・・。


2006年がすばらしい年でありますように! 


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