2021年1月23日土曜日

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Napの考えること2005(#17-#25)





2005年 12月 30日


Napの考えること(その25)「2005年今年もお世話になりました。」



今年も残すところわずかとなりました。ご出演いただいた多くのアーティストの皆様。お越しくださったお客様。たいへんありがとうございました。


今年は「Nap Acoustic Peace」というチャリティを目的としたオムニバスCD「VOL.1」も出すことができました。チャリティという言葉には何か恥ずかしいような気持ちと偽善的なものを感じてしまうことはよくあること。僕もそんなひとりでした。


しかし、結果として寄付金が集まり無事にイベントが行われたことは意味深いものでした。おかしなもので、時間が経つにつれ誰かのためと言いながらも結局は自分自身を救う行為でもあったような気がする今日この頃。物事のすべて。複雑で多面的なもの。そう改めて感じさせてくれました。


さてさて。いよいよ明日は大晦日。皆様いかがお過ごしですか? 風邪などひかぬようご自愛ください。

来年もよろしくお願いいたします。 





2005年 10月 01日


Napの考えること(その24)「MCの話」



自分的にはそれなりの演奏ができているにも関わらず、MCがどうもテンションが上がらないときがある。そんなときのライブはもったいなかったなと後で思う。またこれもよくあることだが歌をうたった後(もしくはその前に)その曲が出来たいきさつを説明してしまうことがある。反省してもついやっちまうのだ。


音楽は詞と曲と楽器でいわば心と心の会話をするようなもの。それをさらに創った本人がご丁寧に説明する必要なんかない訳で・・・。リスナー側にしたらせっかくのイマジネーションが限定されてしまう。音楽本来の楽しみが減ってしまうことと同じ。


MCのうまい人、へたな人というのは確かにある。それって結局もう普段の生活でしゃべりが得意不得意という人がいるのだからあたりまえのこと。しかしいくら普段の生活でしゃべりっぷりがスムースだからって相手に良く伝わるかどうかは別問題だ。話っぷりはぎこちないんだけど言ってることはすっと胸に入ってくる、っていう人は実は多い。


ところで、さだまさしや矢沢永吉、松山千春、中島みゆき、武田鉄矢(敬称略)等々、それこそ数え上げたらきりのないくらいMCが魅力的なアーティストって多いですね。往年のファーク系の人が特に。プロはこれで飯を食っているんだという心構えが大きく違うっていうこともあるのだろうけど。


だからってプロのすべてがMCで会場を毎回ドカンドカン沸かしているわけでも決してないだろう。実際、数年前に僕が見た「ボブディラン」は、ほぼMCなしの演奏のみで2時間近いライブ中でメンバー紹介以外はたったの二回(たぶんだけど)だけサンキューという言葉を発しただけだった(もちろん異国の地だからということもあるでしょうが)。でもものすごくすばらしいパフォーマンスだった。個人的にはいまでもベスト3に入っている。


僕もたまにどうしてもMCをする気になれなくて今日は歌だけって感じでステージをすすめたりすることがある。そこで「ボブディラン」と違う(これもあたりまえだけど)ところは、会場の空気が自分が思っている以上に温まらず、演奏もカナシイことにボロイことが多い。しかもなんとか繋いだMCなのに内容が自分のお客さんだけにしか分からないような狭い話になったり。これってまるで悪い要素が過積載のよう。


そんなことを考えるにつれ、なぜ、あの日の「ボブディラン」はあんなにもすばらしかったんだろうか、と。でもその答えはたぶんシンプルなものだろう。「会場にいるすべてのお客様に心を込めて歌う」、というごく当たり前な姿勢をいつでもどこでも貫いているに違いない。


ステージコントロールがうまくできなくって話すことが何も出てこなかったとしても心さえちゃんと込めていれば、「ありがとうございます」くらいは言うだろうし、言葉で言わなくても一曲終わってちょこっと頭を下げるだけでその気持ちはちゃんと伝わるものだと思う。


あの日のボブディランの公演はいまでも思い出す。その自由な音楽性だけでなく、他の部分も含めて学ぶことが多かったかも。詞は英語だから分からなかったけど、その人生をかけてステージに立っている気迫のようなものがビシバシ伝わってきた。ハートで感じることができた。そのくらいとにかくすばらしかったのだ。


ああ、なんだかまたCDがまた欲しくなっちまった。なにしろすごい数のアルバムあるからなあ、って、これってボブディラン賛歌の話じゃなかったですね。 





2005年 08月 03日


Napの考えること(その23) 「心と体」



何か閃くことがあって、「これは!」という瞬間がある。そんなときワクワクすると同時になぜか、なんだかいまから始めてもなあ・・・、っていう後ろ向きな気持ちが交錯することがある。単純にもう自分は若くないから、という考えだけではなく、そんな心持になることがある。精神分析医がそばにいたらこんなときは何か気の利いたことを言ってくれるに違いないだろうけど。


でも、歳をとることはそんなに悪いものでもないとも思う。自分の限界がみえてくるっていうのは別の言い方をすれば、何を越えていくべきか分かるようになったということでもあって、すこし賢くなったといえなくもない。


僕はいくつかのバンドを組んでは解散というのを繰り返した時期がある。最後につくったバンドには、「GIVE UP」という名前をつけた。「もうまいりました!」っていう意味だけれど、意味合いとしては逆説的に、「これよりもう下には行かないぜ!」って気持ちで付けた。しかし、これもほどなく解散してしまった。


その一番の原因は何かといえば、僕がメンバーそれぞれの音楽的趣向をうまく束ねることができなかったこと。いま懐かしく思い出してみても、その頃の自分の未熟さはもちろんのこと、何よりも等身大ではなかったのだと思ったりする。うまくいえないけれど、心と体にすこしばかりのずれがあるような感じ。勢いだけの毎日であったような気がする。


心と体。


心と体が一致していないということはつまり、地に足が着いていないようなものだから、本人としては実はかなり辛い。何がこうでこうした訳があって、っていうような説明できる種類のものではないのだから。


そんな経験、誰しも一度や二度は経験するものだと思う。そんなときに僕にとってはなんとか自分をまともな思考に留まらせる役目を果たしてくれたもののひとつが自分の原点であるたったひとりだけの「弾き語り」だった。


自分が求めるもので、見返りを求められないもの。完全に俗の世界から離れられるもの。それは小さな光だけれど、求めれば確実に自分を照らしてくれる。そんな力を秘めたもの。それも音楽の大きな魅力のひとつだと思っている。だからいまでもやめないで続けているのかもしれないと思う。 




2005年 06月 28日


Napの考えること(その22) 「言葉の重さ(続)」



何かを批評するというのはご存知のように実はそんなにむつかしいことではないわけです。なんてたって一億総評論家といわれて久しいのこの時代なんですから。とくに良くないところを挙げることは簡単なことです。一般的なレベルでの芸術の良し悪しは誰でもわかるもの。だからこそ大多数に評価された偉大な芸術というものが世の中にはあるのだし、音楽でいえば、その一定のレベル、たとえばプロとアマの違いをみつけるのは簡単なことなのだと思います。


音楽的なことでいうと、おおざっぱなところでは、MCの流れ、間の取りかた、曲の構成、ヴォーカル力。それこそ数え上げたら好き勝手にたくさん僕も言えるでしょう。プロの人たちにだって、然りです。結局のところこれが最高で、これで終わり、という次元はどこの世界もありえない。だから、自分が一生懸命につくったアンケートに何か批判めいたことを書かれたからといって本来、何も落ち込む必要なんてないんです、が、そこは人間、やっぱり良いことより悪いことを書かれた内容が悔しいけれど気になる。


そんなことを僕自身もそれなりに経験しているから、極力、「ライブ」評というのは悪いところを指摘するより、そのアーティストの良いところを磨く手助けになる言葉を投げかけられたらいいな、と考えてしまいます。しかしご察しのとおりそれはとてもむつかしい。一度や二度みただけのアーティストにわかったようなこと等とても言えませんし、たまにわかったようなことを言ってしまって後で後悔することもたびたびです。ほんとに自分の言葉を伝えることはむつかしい。


何度も何度もライブを見て、その人のこともなんだか少しだけれどわかってきて、そしてこれがこの人の代表曲だなと思えるものも知ってきて。そういう段階を経てやっと、ちょっとはまともなことが言えるのかもしれません。実際そんな感じなのです。自分のヴォキャブラリーの問題もかなりあるのですが、基本は知ることなのだと。その繰り返しが大事なのかなと最近ますます思う次第です。


だからこそ毎回来てくれるお客さんというのはとても貴重です。毎回来てくれるお客様(それが恋人や友人だとしても)がいるアーティストは幸せだと思います。確実に成長させてくれる批評家がすぐそばにいるということなのですから。


結局のところ、まだまだ僕は誰かを批評する自信がないというのが本音です。もうすぐ4年になるというのにねえ・・・ほんとに、ねえ。言葉をきちんと伝えること。それは永遠のテーマでもあり、人間として与えられた想像力や品のあるユーモア(これがまた手強い)を持って人と接するこができるのならベリーグッドです。


それができたなら、ほらもう僕もりっぱな人間です!? そしたらきっともっと良い歌たくさん創れるだろうし、歌えるはずだし、売れるだろうし、・・・って、また調子っぱずれになってきたようなので、もうこの辺にしておきます。失礼いたしました。 





2005年 06月 27日


Napの考えること(その21) 「言葉の重さ」



最近はブログを開設する人が多いと聞きます。簡単手軽に自分の言葉が発信できるツールがまたひとつ増えました。実際、Nap出演アーティストの多くの方も自分のサイト上に日記やBBS等々のコーナーを設け、日々言葉でも自己表現をされる方が多いかと思います。そういうこの僕もこのとおり、このコーナーでこうして言葉を綴っています。


そこで、今回はこの言葉の重さについてちょっと考えてみました。。この言葉の重さ、というのがとても計りにくい。わかりやすい例でいうと、よく世間での嘆かわしい問題のひとつでもある「いじめ」。最悪の場合は命を落としてしまうほど人間を追い詰めたりします。そしてその最たる武器もやはり言葉だと思うのです。自分自身もし誰かに身覚えのない非難の言葉、もしくは悪意を持った言葉を発せられたなら、確実に気持ちが萎える。だけど、人によっては、攻撃モードに入る場合ことだってあるだろうし、逆に自分の殻の中に閉じこもり自己を守ろうとする人もいるのが現実。


大きく考えてみますと戦争だって最初は言葉のやり取りから始まっています。だからこそ「言葉」である歌詞をのせた音楽が与える影響も少なからず大きいといっていいと思うわけです。


愛をうたう人はとても多いけれど、愛のかたちって人それぞれだから、「なんだかなあ」って思う歌もあれば、「そうだよなあ」って心の琴線にもろにふれるような歌もあったりします。だけれど、政治、宗教、思想のたぐいを歌にのせるという作業はかなりむつかしく、ある意味、かなり高い言葉のクオリティが求められる。それはこの今の世界の情勢を、世界中に確実に広がりつつあるこの紛争の数々を、真剣にみつめてみればみるほど、めまいがするほどの言葉のむつかしさを感じ取ることができる。


Napでもそうたくさんではないけれど、そんなスタンスで何曲か歌をつくって披露する方が幾人かいる。僕はそんな歌に関してだけは、かなりシビアに聴く傾向があります。なぜかといえば、先に述べた「言葉」の重さを計るべきだと思うから。言い方を変えれば、僕個人の感じ方でしかないかもしれないけれど、もし誰かを傷つける可能性があると感じたら、それはまだ公のステージに立って表現するべきものではないという判断が働く。でも一方でその姿勢は大切だとも思う。理想を言わなくなったらおしまいだから。だからどこかで応援する気持ちも働くし、僕自身もそれなりの音楽での表現方法を探しているのも確かです。


ところで、平和を願う歌にあの有名なジョンレノンの「イマジン」がありますね。あの歌は発売当時、「単なる理想主義者だ!」等々、多くの評論家に叩かれたそうですが、時代を経た今は切実に訴えてくるものがあります。ジョン(正確には&ヨーコとなるのかな?)はあの歌詞の中で決して過激な言葉は並べず、しかし確実に時代を撃ち抜く力を音楽で表現してみせてくれました。そして、当時彼が語った言葉に『遂にやり方がわかったよ。政治的なメッセージにはちょっと蜂蜜をぬって差し出せばいいんだ』というのがあるそうで、当時アメリカでも反体制的なシンボルとしてマークされていた彼ならではの説得力ある言葉だなと感じます。


さて話はまた戻りますが、この言葉の重さ、計ることのむつかしいもの。これについては何の仕事でも同じですが僕の仕事場でもやはり重要な位置を占めています。一番それに直面することが多い場面は、ライブ後のアーティストから聞かれる「ライブ評」です。それについてはすでに「考えること、その6」でも書きましたが、次回でまた少しふれたいと思います。

つづく。 





2005年 06月 08日


Napの考えること(その20) 「上京」



僕の母は昭和3年7月5日生まれ(1928年)ですので、今度の誕生日で77歳になります。お母さんという存在は誰にとっても特別lな存在だと思います。


僕は18歳で上京しました。その時に母に約束した言葉は、「三年で戻るから」というものでした。上京に反対だった母を説得するためでしたが、今となってはその言葉は嘘になりました。でも、こんな自分でも今は人並みに親孝行したいと思うのです。


年々老いていく親の姿を見るとき、自分の未来を少し垣間見たような気になることがあります。ちょっと複雑な心境ではありますが、そんなに悪い気もしません。昔はあんなに親に反抗していた自分なのに不思議です。今に至っては帰郷するたび今も昔と同じように田舎暮らしの母や父をみて少し羨ましく思うことさえあるのですから、人間(正確には僕っていう人間ですが)って勝手なものです。母の目の前でいまさらそんなことを言ったらきっと叱られるのがオチですが・・・。


小さい頃、大人は違う生物のようにみえました。物の考え方や感じ方がまるで自分とは違うので、異次元の世界に生きている人のように感じることさえありました。まあ、それだけ自分が単にかなり幼かったともいえますが。でも、そんな幼い自分でしたが母だけはいつの時も違った場所にある特別な存在のようでした。たぶんそういう方多いと思いますけれど。


そんなこんなで、ここでちょっと思い出したのですが、Napで定期的に出演してくださってる「岡崎純次」さんという方がいます。その彼のオリジナルの中に母への感謝の気持ちを歌った曲があります。自分の母への感謝の気持ちを素直に伝えた詞が印象的です。毎回聴くたびに胸に響いてきます。機会があったらぜひ皆さんにも聞いてほしい歌のひとつです。少しだけ詩の内容を紹介しますと、『自分の好きな歌を続けるために上京したはいいけれどそれなりの苦労なんかもしてやっとなんだか親のありがたみが分かったような気がする』そんな歌だったと思います。


果てさて。僕には何が一体できるのだろうか。


岡崎さんのように母への感謝の気持ちを歌にはできなかったけれど、何かそんなふうにして形にするのはすてきだなと今は思います。マジほんと何か考えなくては、です・・・。


「母の日」から早一ヶ月も過ぎたこの日。母のない人を覚えながら。 





2005年 03月 30日


Napの考えること(その19) 「綱引き」



自分が毎日こうして生きている世界というのはあたりまえではありますが想像以上に狭い。そんなことを考えさせられました。きっかけは、深夜番組です。それはぼんやりした時間を過ごす深夜3時頃、BS2でのことです。いつものようにリモコンをだらだらといじっていると、なにやら画面に真剣な眼差しの中年の男女が現れました。彼らの目のぜんぶは目の前の長い一本の綱に釘付けです。しかもなんだかただならぬ気配です。僕はおもわずリモコンから手を離しました。それは運動会でお馴染みの、綱引きでした。


ただ、ちょっと違うのは全国優勝を賭けたりっぱな大会だったことです。最初は、「なんじゃあこれは!」と思っただけなのですが、画面からひしひしと伝わってくる出場者の真剣さに引っ張られ、結局、優勝者が決まる最後までその番組を観てしまいました。そして見終わった後小さなカルチャーショックを受けた気分でした。ただの綱引きと思いきや、いろんな技、かけひきなんかもあって驚きもありました。こんな大会があったとは。たしか、解説者が25回目だとか言っていましたから、つまり25年も前から続いている由緒正しき(?)全国大綱引き大会だったのです。しかも出場されている団体の方々の熱気はすさまじく、おもわず観ているこちら側の体感温度まで上がってしまうほどでした。その証拠にその夜はなかなか寝付けませんでした・・・。


僕が見たみたその綱引きは運動会でやるようなあまっちょろいもんとは明らかに違うもので、大げさに言えば、その姿は、まるで日々厳しい練習に耐えやっと夢見たあの甲子園の土を踏む高校野球球児のあの凛とした姿と重なるものがありました。スポーツといえばつい大勢のファンが群がる野球やサッカーばかりに目がいきますが、何の世界も裾野は広いんですね。改めて世の中の広さ、自分の知る世界の狭さ加減を知った訳です。


たとえば音楽。僕の場合でいえば、興味は基本的には洋楽。テレビの音楽番組は見ているうちになんだかこっちが恥ずかしくなってくるので見ない(理由は長くなるのでここでは語りません)。で、ライブというと、まあNap以外なら海外のアーティストのみ。そして、CDショップで試聴するのも、そんで迷ったあげく気合で買うのも洋楽99.9% つまり、方角オンチならぬ邦楽オンチ!! こんな感じでかなり偏重していることに気づきます。


それでもこの仕事を一応は3年してきましたから、アマチュアのアコースティックシーンについては普通の方よりかは語れるのは確か。たぶんダウンタウンのおふたりよりか知っているだろうし、タモリよりも語れる。ロックなハコの店長よりかはアコースティックアーティストの知り合いがきっと多い(たぶん)。逆も然り。


こうして考えてくると、なんだかありきたりな言い方ですが、もうすこし世の中広く見渡すことも必要かなと改めて思った次第です。複合的構造物のように、人間の視点は様々、音楽も様々。自分が最高と思っている音楽も実はたったひとりの人間しか感動させることができないシロモノかもしれないし、100万人に愛される音楽かもしれない。でもそんなことよりも大切なのは例の綱引きをしていた人たちの輝く目。あの目はステキでした。単純にあの目に惹きつけられました。あんな目をして何かに挑み続けられたら幸せに違いない。そう思ったらなんだか嬉しくなりました。なぜだか分からないけれど。とりあえずは綱引き万歳!! 






2005年 03月 16日


Napの考えること(その18) 「環境」



今年は記録的に花粉が多いと聞きました。みなさんは対策を練っていますか? 僕は日々甜茶を飲みまくる生活をしております。効果のほどは来年の今日発表します(たぶん・・・)。


巷では入学や卒業、就職に転職、転勤等々、様々なカタチで身の回りの環境が大小問わず変わってしまう時期でもあります。出演者の中にもそういった世間の波に揉まれている方が少なくないようですね。


普通の暮らしの中でも定期的にライブを行うことはかなりのエネルギーを使うのに、そこに環境の変化まで加わるなんて想像するだけでたいへんなことです。何かとストレスも溜まる今日この頃。人間の身体は精神的なものに影響されやすいそうですからこの時期は体の抵抗力も弱くなるそうですから、どうぞご自愛ください。


ライブといえば私事で恐縮ですが、すこし間を置きすぎているなあと反省しきりで。なんたって昔っから平気で1.2年、いや、へたをすると5.6年もブランクを空けてしまう悪い癖があるものですから油断するとやばいです。で、思いました。毎月Napに出演してくださり、しかもほぼ毎回のように新しい曲を披露するアーティスのことを。


約3年もの間そのアーティストは毎回ライブそのものを楽しみながらマイペースで今も活動を続けています。考えてみるとそれ自体ひとつの才能だと思いました。僕なんぞは2ヶ月ばかりライブが続いただけで息切れしそうな気分になる時があるのですから。まさに脱帽ものです。


僕もちょっとは見習わなきゃと思った次第です。 





2005年 01月 25日


Napの考えること(その17) 「チャレンジ」



2005年も明け、もう3週間も過ぎてしまいました。皆様今年もどうぞよろしくお願いいたします。

それにしても寒い。特に夜明け前の三,四時頃が底冷えするような寒さを感じる今日この頃です。


Nap初のオムニバスのイベントも終え、いまはちょっと一息ついているところですが、聴いてくださった方はどんな感想を持ってくれたのか気になるところです。感想なんぞをBBSもしくはメールでもらえるととても嬉しいです。よろしかったらお願いいたします。


さて、なんだかんだいって毎年Napなりのアクションを起こしてきたつもりではありますが、今年は4年目に突入です。まだ計画中ではありますが実現できるか不明という非常に曖昧な表現ですが、今年もあることを画策中です。どうせ何かを始めるのなら、「そう簡単にはいかないこと」、「シロウトにそれはむりでしょ」、「コネがなくてどうするの」、といわれるようなことにチャレンジできればなあと考えています。


どれだけ時間を要することになるとしても自分がやりたいと思うことを目標にしないと基本的にナマケモノの僕は行動する力が沸かないようですから。でも行動するその第一の階段に足を乗せるその一歩まで時間がかかり過ぎるのが僕の欠点。うまくいくことを祈るばかりではだめですもんね。でもまあ焦らずにやっていこうと思います。


皆様にとって今年が平安でありますように。


遅くなりましたが(いつもそうですが・・・)今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


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