2021年1月23日土曜日

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Napの考えること2010 #41#44


 



2010 10 28


考えること(その44)「音楽は人を表す?」



字は人を表すと言いますが、そんなことは嘘だと信じたい。僕の字は相当ひどいから。そういえば、陽水の字に似てなくもない。もっとも彼の場合は芸術的ともいえるからなあ・・・。まあ、それはさておき。


では、音楽は人を表すか否か。いまのところ、YESと答えたい。音楽の善し悪しではなくってその雰囲気がだ。創られた歌の風体というか、醸し出す空気感のようなもの。具体的に歌詞に感じる場合もあるし、メロディの動き方なんかにそれを感じることもある。ただし、あくまでもオリジナルな歌を奏でているというハードルを超えたところでのお話ですが。


元気にみえて実は内省的な歌が多い人、影があるよな暗い雰囲気なんだけど歌はけっこう前向き。歌は得てしてその人の本質の一部を表すかもなあ、と思う時がある。一概にはいえないけれど、必ず歌のどっかしらに知らない自分が潜んでいるのかも。


歌は日記のようなもの。その時々の自分の心も同時に刻まれる。時間を経てつくった歌の中に、変わってしまった自分、変われなかった自分がみえる気がしないでもない。


歌は人を表すか? そんなたわいない議論をつい先日もした。いまのところ、答えはまだ、YES。






2010 04 27


考えること(その43)「伝える」



結婚式で歌ってくれと頼まれるケースは歌い手には当然多いだろうと想像する。そのとき何を歌うかも大事だがその意義の大きさに最初は戸惑う。しかしこれほど分かり易いシチュエーションはない。誰に向かい歌うのかがはっきりしている。おのずとどんな歌が必要かも。僕の個人的経験ではそれはとても気持ちの良いものであり、これまで歌ってきて良かったと感じた。誰かが喜んでくれる。相手に何かしら伝わったことを知った喜び。単純なことだがこれが原点なんだと、初心を思い出させてくれた。


そもそも楽しくて始めた音楽。まねごとができる感激。自分もいっぱしの歌い手の仲間になれる気がした毎日。夢がどんどん拡がっていく感じ。そんな初期衝動もだんだんと薄れ多少できてあたりまえと考えていた自分。キャリアがあれば当然一定のレベルを他人も自分も求める。もちろん一段でも上にあがれば達成感を味わえる。歌でも曲でも演奏でも。それは基本として大事。しかし、自分を掘り下げていくひとつの道具になるのも歌。だから、その掘り方次第ではあまりよろしくない状況にだってなる。


穴掘りに例えるなら当然深くなるにつれ壁まわりは狭くなる。下に向かってだんだんと大きく広げたりしたら崩れてしまう。だからって同じ大きさで掘り続けるのにも無理がある。そこそこの深さで止めたいのにそれを許さない自分もいたりして。残念ながらそんなことはぜんぶ後になって気がつく。しかも学習しない。


「伝える」ということを忘れた歌には味がない。そんな歌もたくさん作ってきた気がする。しかしいまでも歌える曲にはその「伝える」何かが含まれているのだと思う。ステージや部屋で歌うたびに形は変われどそれを思い出す。そんな心象風景のようなものを記憶する力が歌にはある。だからある程度まとまった数の歌ができたら一枚のCDに残したいと考える。自分のためにも誰かのためにも。


ところで最近、なんとなく古いビートルズの弾き語り本を開いた。そのコード進行とメロディの魔法のような歌の数々に改めて驚いた。こんな歌をつくりたい。そんな気持ちが甦る。初心に帰ることは大事だ。忘れた何かを思い出すためにも。 







2010 03 07


考えること(その42)「宿命」



いまさらですが、2009年12月26日付の朝日新聞に精神科医の春田武彦さんという方の、「無力感は人間の宿命です」と書いた記事が載っていた。いまも印象に残る記事でしたのですこしここでご紹介したいと思います。


その内容は、「人の行動原理や感情の多くは無力感に根ざしている。親の期待に背いたり、目標達成できなかったりすることで心の中に自己嫌悪や罪悪感が派生する。それにより自分を肯定できなかったり、逆説的に自分をいとおしく感じたりすることが心の複雑さを作りだす」。


さらに続けて、「不安感は無力感から導かれるものです。各個人がいかに無力感を手なずけ、押さえつけるかという方法や成果によって、同じ状況下でも不安の覚え方が違うのだと思う」。


またその対抗手段として有効なのは、「高望みしない、手近なところで幸せをみつける、分をわきまえること。ただし、その背後には断念や諦観があるのかもしれません」と結んでいた。


この記事冒頭の、「無力感は人間の宿命です」という言葉にはインパクトがある。一瞬、後ろ向きな言葉に聞こえるが、この言葉の後には、「だからこその・・・」と続く気がした。


さて、もうすぐ4月です。出会いや別れの時期。いろんな思いに心が揺れる季節。こんなときは何気なく耳に入る歌の歌詞がふっと心に染みたりする。そんな歌がつくれたら幸せ。


歌をつくる人間としては先の文にある、「無力感を手なずける」手段として、歌づくりはとても有効だ。それがたとえ一時のことだとしても。その小さな時間のつながりが時を重ねているのだから。


いろんな思いを持った人たちがステージに立ち。同じくいろんな思いを持った人たちがそれを聴く。やはり音楽はいいなと改めて感じる今日この頃。東横線に乗った際は、ぜひ「日吉Nap」を思い出してください。そしてすこしの時間、同じ空間を共有できたら幸せに思います。スタッフ一応お待ち申し上げます。 






2010 01 03


考えること(その41)「ヒット曲」



新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。


さて、今回は「ヒット曲」について考えてみたいと思います。


そもそも、ヒットする歌とはなんでしょう。古くて新しいもの。聴いたことのない世界。感じたことのない風。そんなこんなを含んだ歌とでもいうのでしょうか。その括り方は人それぞれ。それを意識してつくりたいと考えるのがプロの現場の方々。僕も一時期なんとかそんな歌ができないものかと奮闘した頃があります。しかしそのヒントさえつかめない始末でありました。


世の中にはビートルズをはじめとする抜き出た才能の持ち主がいるもの。そんな彼らも最初は好きなミュージシャンの真似事から入った。ディランもストーンズも然り。入り口はそこだが彼らにできたことは、「古くて新しい」ものをつくるセンスがあったということ。


一方、ヒット性は抜きに、オリジナル性だけを強く打ち出すことは容易い。アマチュアたる所以。しかしたくさんの人の耳に届くことは少ない。ファンがふえてこそのプロの世界。それを考えるとむつかしいものがある。「古くて新しい」の片方。「新しい」だけの音楽の世界。


日本の音楽シーンも様変わりして、ヒップホップやブラックミュージックに日本語をのせるなんてあたりまえ。しかし残念ながらそこにはオリジナル性が乏しい。新しい何かを感じさせてくれない。時代にもまれ、気づいたら新しいジャンルと云われる。そういう音楽にはなかなか出会えない。


では、リスナーはどうだろう。多くの人はこんな理屈をならべて聞いたりはしないだろう。時代の空気に溶け込む歌はヒットの要素をある程度満たしている証拠。ここがミソ。


作り手としてはすこし自分を突き放して見る目が必要。自分の世界観を映しつつ、時代の空気も感じながら。そんな曲作りができたらと考える。プロの世界ではそれを果たす役目としてプロデューサーやディレクターがいる。アマチュアのミュージシャンはそれを自分で果たすしかないから悩ましい。


成功を手にするミュージシャンの多くはアマチュア時代にすでにこの両方を備えている気がする。もちろんいろんな書き物を読んでの感想ですが。生まれついての才能に恵まれた方なら別だがこれを磨くにはたくさんの音楽やライブに触れるしかないかもしれない。


ヒット曲。アマチュアにとっては代表曲とでもいうのか。世に出るためのひとつの武器。一度聞いて耳に残る歌。それが多くあれば多くあるほど良いに違いない。多くの人に知って覚えてもらうためになくてはならないツール。そのアーティストの入り口に立つ門のようなもの。そう思ったりもする。


今年が皆さまにとってすばらしい年になりますように! 

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