2021年1月23日土曜日

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Napの考えること2007-2008#30-#34 








2008 12 31


考えること(その34)「良いお年を!」



2008年最後のこの日。あと数時間で2009年。今年もたいへんお世話になりました。この仕事をしていると世の中の状況がひとつ別のところで流れている気がすることがあります。それは創造的人々が音楽というもので表現する場所にいるからでしょう。しかしひとつドアを開けて外に出ると世界はリアルにひしひしと押し迫ってきます。何を基準にするかは人それぞれですから、僕もまわりに惑わされないように、変わり続ける世の中の基準とは比べねえぞ、と自分に言いきかせています。そうしないと自分の中の軸のようなものがずれていく気がします。昨年母を失くし自分の寿命というのを考えました。人の命の重さは思った以上に重く、心は簡単には癒えないことを知りました。誰にも読めない命の長さなら一喜一憂することもなんだか馬鹿らしいなとも考えもしました。いまは足元をしっかり見ながら、だけど気持ちはずっと先を見ながらというのが楽に思えます。そして来る2009年を何年か先に振り返ったとき「自分らしく過ごした」と思える年にできたらと考えます。みなさま良いお年をお迎えください! 





2008 12 15


考えること(その33)「師走のど真ん中に」



今年ほど世界経済が大きく揺れた年はないのだろう。なにせ100年に一度といわれる不況ともいわれているのだから。上半期に上昇気流に乗っていたはずの多くの企業にも軒並みリストラや倒産の文字がおどる。まことに恐ろしい時代だ。企業の大小に関わらずどの世界も厳しいのが現実で、それは日々様々な場面で感じることも多くなった。こんな時は、軒先で日だまりに抱かれまどろむ猫のように「そんなの関係ねえぜ」という態度で過ごしたいものだ。


残念ながら人間にはそんなつるつるの感情は持てないのである。自由であるということはやっかいなものだ。猫にどのように生きるかなど選択の余地はない。しかし人間だけに与えられたこの自由は選択の連続が続くことでもある。生まれ落ちた環境がどうのこうのという声も聞こえてきそうだが、そうじゃないことは多くの偉人達がすでに証明している。この選択ということをこの師走のど真ん中で今回は考えてみたい。いやもっと単純に生きるということを考えてみたい。


この世知辛く窮屈で不平等な国の様相はきっと変わっていくだろう。同じ状況をつないでいくものなどこの世にはないのだから。いまたとえば不治の病に侵されてしまった人がここにいるとする。そこでその人はもう生きる意味がないと床に伏すのか、それとも前を向き直して残りの日々を懸命に生きようとするか。このふたつの間には月と地球ほどの距離がある。


このことの大きな違いは、「希望」を持つか、持たないか。それにつきる。希望を持つということは「信じる」ということ。信じるということは生きるということ。それと同意義だと僕は思う。逆説的にいえば、信じないということは生きないと同じ。命があってもきっと生きていくのは辛いだろう。何も信じず、希望を持てない今日を生きるということはなんと空しく辛いことかと思う。何のために今日生きるのか。誰のために自分は生きているのか。誰がこの自分という存在を必要としているか。それが見えなくなる日々。その辛さは人間には耐え難いはず。


だからむしろ僕は信じる道を選びたい。希望を持つ道を歩みたい。誤解をおそれずに言うならその道を選ぶことの方が楽だと僕は思う。明確で一筆書きにできるりっぱな「希望」などというものでなくていい。もっとシンプルに「明日はきっと変わる」という希望だけで充分だ。それはただ信じること。なにも宗教的なことや哲学的な話ではなくて単純にすべては変わるのだと僕は信じたい。そうやって生きていけたらと思う。良い時も悪い時も平凡な時も過去に一度として同じ状況が続いたことなどなかったのだから。そう自分に言い聞かせている。ボブディランも歌っている。「時代は変わる」と。 





2008 10 28


考えること(その32)「第3の視点」



初めて歌ったライブハウスの名前は覚えていない。だけど夢中で歌い過ぎてかすれ声になったことを覚えている。その後も何度か同じ経験をし、自分の声帯は弱いんだなと思った。曲作りのために録音した声は自然だった。声もかすれない。歌もなんだかうまい気がする。ライブで録ったテープはさんざんだった。歌もひどいがMCもひどい。二度と聴きたくないと自分が思うほどだった。このギャップは何なのか。


しばらくしてギャラをもらえる仕事が舞い込んだ。意気揚々としてその店でしばらく歌わせてもらった。心はびくびくのまま。目の前にしゃれたお客さんが座り、僕はそのすぐそばでカバーやオリジナルを歌う。やっぱり30分くらいで本来の声が失われた。自信を失くした。自分はライブアーティストには向かない。録音だけならまだ自分の世界観を表現できる。ますますそんな気持ちが強くなった。


中学の頃アキニのアナログテープ式の2チャンネルを拝借して自作曲のデモをたくさんつくった。それが音楽にますますはまるきっかけになった。コーラスを入れたりするだけで自分の世界がすばらしいものに思えた。だからライブでも自信だけは山のようにあって僕はその世界に浸りその自分だけの世界に向けて歌った。いまだから分かるけどそれは人には届かない。もちろん比較的出来の良い曲はなんとか場を補ってはいただろう。しかしライブ全体をとおしてお客さんの心にきちんと届くことは稀だったと想像する。


自分とお客さん、そしてもうひとつの視点。仮にそれを「第3の視点」と呼ぶとして。その頃にもしそれを意識できていたのなら、もっとましなライブができたと思う。自信だけが取り柄のライブ。目の前に座るお客さんを異次元に置くようなライブ。そして喉の調子も考えずただ、がむしゃらにガシガシ歌うだけ。そんな自己満足オンパレードのようなライブ。僕に欠けていたのはその、「第3の視点」だったといまは考える。いつかタイムマシーンができたら試してみたい。結果はここで発表します。乞うご期待!? 






2007 05 08


Napの考えること(その31)「小さな宇宙」



ギターを抱え、ピアノの鍵盤に触れ音を奏で歌い、自分の創りだした宇宙で漂う。そんな小さな快感を知るとき人は音楽の魅力にとりつかれるのだろう。しかし、その音楽も思うようにならなくなり、初期衝動も忘れるほど情熱を失うには様々な要因が関わってくる。そんなとき解決の糸口のひとつになるものは、「自分に正直になる」ことなのかもしれない。


僕個人で言えば、未熟な演奏技術、詩のつたなさ、メロディのひ弱さ、そんなこんなを克服しようとする努力のなさ、そんなことがどんどん頭の中に積み重なってくる。まさにそういう状況が情熱を失ってきている証拠と感じるときがある。


自己表現の根っこのある一部分は「怖れ」から生まれてくるように思う。恋人を失うこと、友人を失うこと、家族を失うこと。明日の糧を失う怖れ、年を追う毎に、新しい怖れは増えてますます自分という存在の不確かさを知ることになる。そんなとき、自分のつくった歌が自分自身を救う鍵になる経験も皆さんもあるのではないだろうか。ステージで歌う音楽の存在はへたをすると自分という人間の存在より確かに感じることさえある。ちょっと言葉にするとキザないい方ですが・・・。


だから人は自己表現である絵や文章や音楽にのめり込むのだろう。その瞬間、その時間に小さな安心感を得るのかもしれない。自分という存在を意識しないまま他の存在を感じることは、虚構の世界に生きることと同じ。空に浮かぶ雲が刻々と姿カタチを変えるように僕らも一時も同じ場所にいることはできない。そんな自分の立ち位置が変われば当然に相手の視点もずれて見えてくる。そんな世の中に焦点に合わせていくことは至難の技。いやむしろありえないとさえ思う。だからこそ自己表現が生み出したものは愛しくもあり、焦点のずれないものとして自分の中に存在する。


しかし、一方でその自己表現が自分を苦しめることもある。知らず知らず本当の目的を失ったやり方をする場合に。不正直になってしまった自己表現。僕の場合でいえば、それは明らかに内に内に向かっている時。単なる自己満足の世界。それに陥っている時が多い。


最初に知った小さな快感。小さな宇宙。それを思い出すとき、いまの自分のスタンスがどの位置にあるのかを知る。これからもそうやって音楽を続けていくのか、やめてしまうのか。それは誰にも分からない。自分にも分からないし、まして他人に聞いて分かるはずもなく、自分がいつか知る道のひとつ。でもはっきりいえるのはそんな葛藤はすてきなことだ。もっと不自由で不条理で理不尽な世界はまわりにゴロゴロころがっているのだから。


結局は誰かに向けて自己表現をする、そのことこそが、「自分に正直になる」ためのリトマス試験紙の役目を果たすのではないだろうか。赤色になるのか、青色になるのか。自分の中で創ったものを一度外に放り投げ、それを自分も外から確かめる。そのことが自己表現を磨く手がかりになるのかもしれない。単なる自分だけのものから、他の視点と焦点の合う場所。それを見つけられるのかもしれない。それを達成した瞬間に立ち会えたならきっと幸福な時間を共有することになると思う。 






2007 01 04


Napの考えること(その30)「2007年。お正月にて」



新年明けましておめでとうございます。皆様におきましてはいかがお過ごしでしょうか。僕は久しぶりにマッタリと年末年始をテレビなんぞを見ながらダラダラと酒なんぞ呑んでおりました。


普段はなかなかTVなんぞは見ることがございませんが、深夜の寝静まった時間にパターン化したテレビショッピングを目に映るまま見ているという体たらくでございます。それはそうと。せんだって見た番組は少々おもしろかったです。それは、某大物占星術のお方が次々と招かれたゲストに向かいバッサバッサと切り込むようなコメントをおっしゃる例のあれです。


どうにもこうにもなぜそんなにはっきりと物申すことができるものなのか。ある時はその相手の寿命までをも告げ、ある時はそのゲストの将来をきっぱりと告げる。その迷いのない発言にタバコの灰が床にこぼれちまいました。


僕は個人的には占いのたぐいは一切信じません。でも某女史のお話には印象深いものも多くありました。特に人間には何かをつかめる時期が決まっている、という話。このくだりは某ゲストミュージシャンに言い放った、運気が上がっていた数年間を無駄にした、とこっぴどく叱った場面。それまでの彼女の振る舞いとは正反対の豹変ぶりにはちょっと笑えましたが・・・。


まあ、それはいいとして、思わず僕もこれまでの人生振り返っちまいました。もしかしたらあの時あれがこうなって、ああなって、こうしていたのなら、んん・・・、どうだったんだろ? てな具合です。


もしそんなことを本気で信じたら毎日、いやもしかしたら僕のような人間は数時間ごとに、彼女に伺いをたてにいくかもしれない。必要以上に何かに縛られることは避けたいと日頃思っているのにも関わらずに、です。


冷静に考えてみますと、本来自分の生き方の良悪てえもんは、まっとうに自分に向き合ってみたら感じるだろうし、分かるものかもしれません。誰かに何かを言われたからってそう人間簡単に変われるもんじゃあねえよ、と、ひねくれもんの僕なんかは考えつつ、彼女が発する言葉の奥にある真実味のある温かみが画面から伝わってくるのも確かでした。


さてさて。新しい年。見た目には風景も風も人も何も変わっていないように映る2007年正月。去年より今年。少しでもNapが成長できるよう精進したいと思います。


本年もよろしくお願い申し上げます。 


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